2012年 05月 18日
天皇と皇后の英国訪問、英国女王の在位60年の記念式典への出席であると同時に、東日本大震災への英国人の救助活動への感謝の旅でもあったのでした。朝日と時事の記事を読むと、両陛下が沢山のかたがたにあって、迅速な救助への感謝のことばがすばらしい首脳外交であることがわかります。日本の政治はなかなかうまくいきませんが、両陛下が国民融合の象徴でもあり、同時に海外に対する日本の良さと素晴らしさを伝えていただくということに深い感謝の念をもちます。天皇が出発前の式典でみせた晴れやかな笑顔、テレビで拝見しました。忘れられません。それとおそばで腕をしっかりと支えた皇后の姿。この皇室の姿をいつまでも海外にも国内にも見せて欲しいと願うばかりです。 橋下市長のツイートに、大阪バイオサイエンス研究所の存在を、府知事の時代の4年間で聞いたことがない、というのを読みました。ホントなのかもしれません。府知事の時にバイオの事業は沢山手がけ、大阪府の将来に密接にしてかつ、大きな役割を果たすと考えている気配でした。それであるにもかかわらず、いちども聞いたことがない、このあたりから、どうも仕分け的な扱いが始まっているような気がします。 たしかに聞いたことがない、だからたいしたことないはず。これは非常にありがちな世の流れです。色んな人たちがこれで、辛酸をなめているはずです。名前が売れて、すごいらしい、ということになると違います。特に説得力のある話がつけばますますですが、なかなかそうはいきません。 きつい場合など、国内や海外の同業者が口がさけても競争相手の名前などいわない、そんな風に損をすることがあります。いっぽうで、自分の業績なんか、宣伝しなくても分かるはず、とうぜん知って尊重されるはず、これもありがちです。日本人は、言わなくてもわかるだろう、これが一番多いのでは。自己宣伝するのは嫌われる社会でもありますし。 仕分けの話がそれましたが、東大でやれば世間は騒ぐが、他の大学で同じことをやってもピクリとも世間が反応しないこともあります。 わたくしとしては、早石先生のご業績なんからは全日本人がしっていていいはずだと思うのですが。でもたしかに50年以上も前の轟くような令名を若い人にしらせようとしてもなかなか難しい、やはり繰り返し国の誇りになるような話は言わないといけないのでしょうか。わたくしの分野では、増井先生や岡崎先生、野村先生そして富澤先生の業績など若い人たちにいつまでも知ってもらいたいものです。 ▲ by yanagidamitsuhiro | 2012-05-18 17:05
2012年 05月 17日
大阪のバイオサイエンス研究所の危機に対してあまり学会や社会での意見が聞こえてきません。 この研究所はわたくしの理解では、不世出の生化学者早石修先生が京大を辞められたあとに設立された高名な生命科学研究所です。脳科学や免疫科学に特にすぐれた研究所で、その後花房先生、中西先生と世界的に著名な方々が所長であり、存続が危ぶまれるという可能性があるなどとはわたくしにはまったく思いつきませんでした。杞憂であってほしいと願うばかりです。北川さんはわたくしが橋下市長に直接ツイートしなさいと言うのですが、どうもねえ相手が、あまり気が進みません。 こういう場合のルールというのはなかなか一義的に決まってないのでしょうが、でも人件費と建物経費の肩代わりをするのなら、阪大とか私学の関学とか関西大とか手をあげるところはないのでしょうか。 この話題とは独立ですが、日本国民の生命科学の基本知識というのは低いともいえないし、また高いともいえません。リテラシーといいますね、基本知識とか使用能力とか、そういう見方になるとまだまだ非常に不十分だと思うのです。サプルメントの広告なんか読むと、対象消費者はなめられているな、と感じます。こんな程度の低い広告でも年間ものすごい額の商品が売れているのだそうです。 こういう点も、生命科学者が社会に対してはっきりあけすけに発言をするのはとても大切だと思うのです。 ▲ by yanagidamitsuhiro | 2012-05-17 21:46
2012年 05月 16日
沖縄の40年、いろんな取りあげ方があるようですが、明るい将来性のあるとりあげかたが非常に難しいことは、たしかです。 わたくしは鳩山元首相が沖縄に謝罪にきて挨拶をしたのはこの機会としてはよかったとおもいます。これを機会になんども沖縄にやってきて、誰がなんといおうと元首相のことはまちがいないので、すくなくとも基地移転は県外といったことを撤回した汚名の挽回のためにも、今後沖縄県民のために努力して頂ければありがたいです。 沖縄の苦難の歴史をるると聞くのもいいのかもしれませんが、沖縄には実に色んな人がいる、沖縄の人々の多様性を知る方がずっと意味があるとおもいます。 わたくし、これまでに本土でつきあった人々が実はルーツは沖縄にあることを知ることが最近多いです。この名前は沖縄にルーツがあったのか、と。名前が沖縄独得なのでそれで分かることがありま。 いっぽうで、ご本人が実は、親の一人が沖縄出身とか聞くことも多いです。 そういう人々の個人史をしることが今の沖縄にとっての一番の発展の起爆剤、沖縄の将来の可能性を生みだすと思います。逆に沖縄で住む、よそ者が結局は沖縄の将来の鍵を握っているとおもいます。 だいたい歴史が教えてくれることはそういうことです。 沖縄から、総理大臣が出る時代がそれほど先でない、そういう風に考えるとすこし将来を明るくかんじますが。 ▲ by yanagidamitsuhiro | 2012-05-16 20:39
2012年 05月 15日
沖縄復帰40周年記念行事がいろいろあるようです。 わたくしは沖縄復帰40周年とある、記念切手10枚綴りを話題にしたいです。 80円切手が10枚うえから、首里城、ゴーヤとマンゴー、花がふたつたぶんハイビスカス、水族館ジンベエザメらしき魚が二匹、それにモノレールと海中道路でしょうか。それなりに美しい切手です。 ただ、なんとなくありきたりでこれらがどうして40周年切手なのかその記念性は薄いですね。 沖縄のあかるい将来をイメージできたらいいのに。 明るい話題で40周年を記念づけるのはむずかしいかな。 那覇空港に乗り入れる日本と世界の空港の地図を沖縄を中心に地図と矢印をいれたらいいのに。沖縄の将来は乗り入れる飛行機の便と深く関わるでしょう。 沖縄は芸能と芸術の島かもしれませんが、これまではやはりスポーツですか。 ボクシングとゴルフの具志堅さんと宮里藍ちゃんを似顔で示したらさらにいいのに。 モノレール海中道路の2枚とハイビスカスをこれらに変えたら、記念性はさらに増したのになどと考えてしまいました。 学術もなんとかしたいですが、わたくしの生きているうちにどの程度変わるか期待したいです。 ▲ by yanagidamitsuhiro | 2012-05-15 20:00
2012年 05月 14日
ギリシアでは再選挙の可能性が高まっているとの報道です。 二大政党への不信で、少数政党に支持があつまったのが前回の選挙の結果なのだそうです。 新聞でのレッテルでは、極左と極右なのだそうです。それらが従来の二大政党を足した支持率より多いのだそうです。第二党となった極左?党は緊縮財政に反対だそうです。ギリシアのもう一つの特徴はメディアに対する不信なのだそうです。新聞が指導的意見を述べても、投票者が信じないという状態のようです。これは朝日の特派員の記事の要約です。日本の近未来的状況という意見もあるようですが、どうでしょう。日本でもネットでは大メディアに対する不信はたくさん見られますが、でもまだまだごく少数でしょう。政治的には日本の大多数はたいへんおとなしい、ただどこかの政党にしっかり操をまもっている人たちはごく少数、公明党や共産党だけで足してもせいぜい数パーセントです。だから橋下市長の維新政党が次の選挙で大きな票をえる可能性があるのです。でもそれは既成政党に対する強い怒りや不信によるものかどうかは分かりません。橋下氏のたぐいまれなリーダーシップの生みだした1つの政治的流行現象とも見えます。 だれが橋下氏がこのような政治的潮流をつかむと予想したでしょうか。 わたくしなども面白いタレント、意見をしっかりはっきりいう愛想のいい弁護士という印象でした。ただ、光市の殺人事件裁判に対する弁護士の態度がけしからんという発言から起きたたしか懲戒請求でしたか、この出来事で相当に強い個性的な意見をはっする人という印象を多くの人が持ったに違いありません。 いま、橋下氏をどう評価するかどう日本の政治のなかで位置づけるか、意見が分かれているようです。辛辣な意見から強い支持まで別れているようです。 はっきりしていることは、橋下氏はネットをよく利用しているようです。それから議論好きで、失言などの可能性をほとんど怖れてないようです、また1つの意見に集約してグループ員を締め付けることもしないようです。なにかの行政や政治の意見を決めるためのやりかたについては、プロ中のプロの頭脳をもっているようです。 そういう点ではまちがいなく一級の人材であり、また天性の人間的魅力もあり、ここまでは日本を誤った方向にもっていくという印象はありません。 気になる点は、刺青問題。本当にどこまで排斥する気持をもっているのか?この点、もうすこしゆるい感覚ももっていてほしい。 文化財や文化的な組織への冷たい態度。これもそういう組織に巣くう特定団体の排除を狙っているのか、本心から価値を税金での支援を認めていないのか、そのあたりがわからない。 さらに国の根幹となる産業についてどのような考えを持っているのか、わたくしのような学術をやっている人間は公的な予算というか支援が必須なのですが、どんな考えを持っているのか、そのあたりを知りたいです。もしも白紙ならぜひともそのあたりいい意見をもつようになってほしい。特に基幹の未来産業は。まさかモナコやマカオみたいに思っていないでしょう。 いまのところ維新のなかにはちょっと保守が過ぎて、知的に後ろ向きの考えの人たちが多くいるような印象もあり、そのあたりも不安要因です。 ぜひとも未来的にして先端的なものもたっぷり含んでほしいものです。 ▲ by yanagidamitsuhiro | 2012-05-14 20:32
2012年 05月 13日
齊場御嶽(せーふぁうたきと呼ぶらしい)と久高島(くだかじま)を訪ねました。 前から行ってみたいと思っていました。 齊場御嶽は沖縄の最高の聖域(うたきとは神が降臨し鎮座する聖域でせーふぁは最高とのこと)ということです。首里のお城の人たちもお祈りに来たらしい。 さすがにすごい巨岩があり、特に一カ所は名前にふさわしい最高の巨岩でした。 問題はえらく人気のあるところらしくて、若者やおよそ縁のなさそうな外人などでざわざわがやがやの雰囲気でした。何かスピリチュアルなものを感じるのはわたくしには無理な苑内の雰囲気でした。でも強く記憶にはのこる場所でした。 また来訪しましょう。あまり人の居ない時間帯に。 久高島、こちらも人気があってフェリーが超満員で、高速船が臨時で出航するという盛況ぶりでした。沖縄最高の神ノ島との宣伝が効いているのでしょうか。 ほとんどが若者たちで女性が多い。あまりスピリチュアルを希求する若者とも思えませんでしたが。でもともあれ自転車を使って一周8キロの島を一周し、めぼしい見るべき場所は見ました。 わたくしにはこの状況下ではこれで十分でした。 あとは自分で適当に想像しますから。 齊場御嶽からもよく見える島です。本土的には、天孫降臨の場所、高千穂みたいな感じでしょうか。 高速船なら船着き場から、15分でつきますがかつては本島とはほぼ隔絶していたのかもしれません。 女性主導の島の祭祀と一年間の島の運営、ちょっと学んだ情報と現地踏査(?)の実感、これと一冊の本があれば十分に自分の考えは基盤的に作れるでしょう。 話は飛びますが、齊場御嶽のすぐそばにおいしいコーヒーとスイーツを食べられる店がありました。 いい雰囲気でした。恩納にはこの雰囲気はまったくありません。 島の南部、なかなかいいですね。ここらあたりで一ヶ月くらいすごしたいですね。 なんかすごいアイデアが湧いてくるかもしれません。 本島南部に大学とか研究所はあるのでしょうか。 あとはわたくしのこの2つの場所について、他の人からのインプットが必要です。この島の沖縄の歴史における位置はいかなるものか。 そのあたりの意見をうかがって、もう一度来ててみたい。こう思いました。 稔り多い、訪問でした。 お土産には孫たちに海岸で拾ったいろいろな小さな石とサツマイモのくずの粉末ですか。 ▲ by yanagidamitsuhiro | 2012-05-13 20:04
2012年 05月 12日
沖縄には戦前に沖縄軽便鉄道というものがあって南は糸満から北は嘉手納まで線路がひかれ沢山のひとが利用していたという事実をしりました。 なにかで読んだ記憶はあるのですが、はっきりした知識にはなりませんでした。実は、そういうタイトルの本が、ゆたかはじめさんというかたによって出版されているのです。実際にその本を手にとって、よむとメルヘン的な絵と詳しい事実が書かれていてたいへんに貴重な本であることをしりました。 このブログでかつて沖縄に高速鉄道をというようなことをかきましたが、この本を知っていたらずいぶん書き方を変えたでしょう。重大な文献を見逃していました。 先人も後人もおなじような発想で沖縄に鉄道を敷くのなら、まず糸満から嘉手納という発想は持つでしょう。いまだと、北部の発展を考えるのなら、名護までと言わざるを得ません。しかし沢山のひとが住んでいるという点では、糸満から嘉手納は昔も今も効率がよいにちがいありません。 この沖縄軽便(けいびんと呼ぶ)鉄道を読むと、いまもそのなごりが沢山残っていることが記されています。支線などもあったのでなんともいえない懐かしい気分になります。 なぜこの鉄道がなくなったのか、それは沖縄の戦争での悲しくもひどい歴史的な経過によるものです。 ですから、沖縄軽便鉄道の終戦時の運命をしることは、沖縄の戦争史t戦後史をしることにもなります。 この本を読んで、なんとしても沖縄に鉄道が欲しい、と思いました。 この本をかいたゆたかはじめさんは本土で高等裁判所の長官までされた方なのだそうです。 そのあと沖縄に住んでいるのだと知りました。 ▲ by yanagidamitsuhiro | 2012-05-12 22:07
2012年 05月 11日
前にも触れましたが、昨年のヘチマとナス、どちらも枯れずにかたや地植え、かたやプランターで生き延びていました。それが春と共に元気を回復してきました。まさかと思っていたら、ヘチマは元気のいい葉っぱをたくさんつけだしてとうとう小さなヘチマを作り出しました。ナスのほうも冬のあいだおりおりに花が咲いても、実はできずに花が落ちていました。それがここに来てとうとう実がついて、ちいさなナスが2つできました。 本土では経験のないことです。つまり沖縄にはやはり冬がないのでしょうか。昨年の野菜がこんなかたちで存続するとは知りませんでした。どこまでまともな収穫ができるか分かりませんが、来年もできるかもしれないので、大切に扱いたいと思っています。 ▲ by yanagidamitsuhiro | 2012-05-11 21:20
2012年 05月 10日
沖縄の復帰40年ですが、お祝いムードは希薄です。 当然とおもわれます。40年目の今年、沖縄にとってうれしいニュースはほとんどないのでしょう。 沖縄の基地の多さがほとんど変わらないのは、本土のエゴによるものだという、意見これも当然でしょう。でもその気持が本土のひとびとにほとんど伝わらない。本土では沖縄には膨大な国費を投入している、だからもう十分だろうという意見すらあるでしょう。しかしかれらはその国費の大半は首都圏やほかの本土地域に回流してしまっていることも知らないのでしょう。沖縄に来る旅行客の大半は、来る前にすでに必要経費の大半を払ってしまっているのと似た現象です。これがいったいいつまで沖縄で続くのか。じわじわ良くなるのとじわじわ悪くなるのがほぼ拮抗しているのが、沖縄県人の実感でしょう。思い切り変えるのなら、本土と独立の経済社会圏になるための方向かいっそのこと琉球共和国を夢見ることになるのでしょうか。 その40年後の現状ですが、いっぽうで県民はひとりずつ年を取っていきます。復帰のときを実感できる県民も減りつつあります。 じつはわたくしも結婚後40年たちました。沖縄復帰の年に結婚して京都に家庭を持ち始めて、いまは沖縄県民です。夢にも思わなかった人生の展開です。それだけすごい長い時間がたちました。最初の準備的な10年の研究生活、それから40年の職業的な研究者生活でした。復帰後40年が長いとすれば沢山のことがあったとすれば、個人レベルではわたくしにもこの40年同じように色々なことがありました。 向田邦子さんが台湾での飛行機事故で亡くなって30年たったことをしりました。 その作品の鮮烈な存在感はいまでもまったく失せてないので、10年前に亡くなったと聞いてもそうかもしれないと思うほどの、時の空白を感じさせません。 でもそれはわたくしの錯覚かもしれません。鹿児島で子どもの時に同級生だった女性の記憶が記事に出ていましたが、81歳とありました。そうか向田邦子は生きていれば81歳、つまり51歳で不帰のひとになってしまったのだ、とため息がおもわず出てしまうのです。父親役をやったフランキー堺さんいつ亡くなったのだろう、と記憶がぼうぼうとしてしまうことに気がつきます。 向田邦子の世界にでてくるひとたちが正真正銘の近代日本人であったと実感を持って言えるひとはだんだん少なくなるのかもしれません。しかし同時に向田邦子のえがく日本人の存在感は没後30年たってもまるできのうもきょうもそこかしこにいて生きているような気持にさせるのです。 この30年の時間の近さと、40年の時間の遠さのちがいはいったい何なのでしょうか。 ▲ by yanagidamitsuhiro | 2012-05-10 12:07
2012年 05月 09日
40歳の頃のはなし、もうすこし続けます。 その頃、健康診断で、血糖値を初めて測ったら、かなりたかいことが判明。HbA1cが6.5くらいありました。でも毎晩家に戻るのが10時近くで、それを変えるのは無理なので(ラボから家が遠かったので)、週末の運動くらいしか改善策が無く、しかも身体には悪い碁もすきで、結局65歳に改善を決意するまでそんな血糖値が続きました。体重も40歳のころは一番多くて75キロは越えていました(伸長180センチ弱)から、まあメタボといわれるべき状況でしょう。米国にDNAの単分子の映画を見せにいったときに、とうとう宿舎で尿管結石の激痛に見舞われ、救急車で病院へ、膀胱に石がある状態で、学会発表したものです。医師にあんたはデスクワークがきついから、これから何度も石の出産をやるぞとおどかされましたが、幸いその後ありません。 これがわたくしの厄年の出来事で、痛い目にあい、またメタボ病前駆者の称号も持つこととなりました。糖尿病は合併症がおきたらアウトですから、よくぞその後30年もなにごとも無しでこれたのか、悪運というかそれでもそれなりに一生懸命運動、減量努力したのが良かったのかです。 それで40歳の頃は、仕事も身体も薄氷の上の状態だったのでしょう。結果は、しばらくして、成果も見えだしてきて、性格的にも状況的にもしゃにむに進めざるをえなかったのです。家では、子ども3人が小学生、幼稚園でいちおう最低限ののふれあいはあったはずですが、いい父親とはとても言える状態ではなかったでしょう。 非常に助かったのは、学科の先輩教授がおまえはまだ学問がんばれ、ということで教室主任とかの雑用職は一回パスしてもらえ、学部の教授会にも閉会30分くらい前に出るような態度習慣でも許してもらえたことです。いまでも感謝しています。 ラボのメンバー、家庭、同僚にしょうがない奴ながら寛容の目で見てもらって、日々を送れたのが40歳の頃でした。 当時の学生は、あの頃はテーマがちょっとしかなかったなどと、最近いっていました。わたくしから見ると山のようにあったのですが、学生の目からみればそんなものだったのでしょう。 地盤も看板も無くしゃにむにやった40歳の頃、もうあんなエネルギーは二度とでてこないでしょう。いまだって、たぶん40歳のみなさんは大差の無い状況におかれているに違いありません。 この頃を思い返すと、運鈍根はほんとだな、と感じます。 たしかわたくしもその40歳の頃から、結局努力だけじゃなんかたりない、やっぱり運かな、などと言っていたような気がします。自分もそうだし、かなりの数の学生さんの教育を始めだしてそんな印象を持ちだしたのでしょうか。 ▲ by yanagidamitsuhiro | 2012-05-09 15:33
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