<   2011年 11月 ( 48 )   > この月の画像一覧


2011年 11月 30日

なぜか投稿が可能なので書いて見ましたが、どうなのでしょうか

まったく駄目とおもっていましたが、なぜか投稿サイトにたどり着きました。
書いても自分が書いたのは読めませんので、ちょっと不安ですね。

さて、やはり中国は四千年の歴史ですから、なんでもひと味もふた味もちがいます。
北京大学、この2年ちょっとのあいだ、さらに一段と見かけも内容も変化しているとのこと。
町の外見と内容も同様に著しい変化が起きているのでしょう。

西欧型の民主主義が実行される前に、資本主義的論理と市民社会的なものはいまの中国では溢れています。頑張ればとんでもないお金持ちにもなれる社会は、それなりに魅力が多々あるのでしょう。
情報もネットを使えば迅速に広い人たちに伝わるのですから、中国社会は自由で開放されているといっても、あまり違和感はないのでしょう。
そうでない部分も無視できないくらい大きくポッカリあいているのですが。

でも、この社会では投票権はほとんどの人たちは持っていません。
このあたりですか、急いでかえていく必要があるのは。どんなローカルなものでも投票行動を経験しないといけません。自主的な頭脳ができません。

そういえばわたくしのいる沖縄の職場では投票したことがありません。その点は、中国社会並でした。
大学院大学になっても投票行為はほとんど無いようです。でも、すこしずつ投票の機会を増やそうという若手の努力が出てきているようなです。期待したいです。

by yanagidamitsuhiro | 2011-11-30 18:35
2011年 11月 29日

北京でのブログ

週末まで北京にいきます。
前回の経験では、中国でのブログ投稿はなかなかたいへんです。
そもそも日本のブログは中国ではすべて見られないようです。
ただ、投稿は可能です。あくまで可能ということで、前回は頑張ってやりましたが、どういう風にみえるかは分かりません。
不安な感じです。
そういうわけで、どうなるかは分かりません。今回はノンビリしたいので、なにも投稿しないかもしれません。
もしかしたらもうそういう規制は無いかもしれません。わたくしのようなのは中国には無害でしょうし、日本語ですから読む人もゼロでしょうから放っておいてくれるといいのですが。
中国の昨今のムードはどうなのか、研究環境は日増しに良くなっているのか、それとも違うのか、知るのを楽しみにしています。

by yanagidamitsuhiro | 2011-11-29 11:09
2011年 11月 28日

大阪の新知事と市長の手腕、

百万遍のオフイスにて仕事。RC君との研究の話あいと北京での講演準備がメインの仕事ですが、はかどりました。
あしたから旅行で、気持ちはすこしせわしないです。

やはり大阪の新知事と市長がどのような手腕をみせるのか、興味深い。でも、先行きはわかりません。
三大新聞はどれもにたりよったりですが、毎日新聞がいちばん好意的とみました。
朝日新聞は、市役所の組合あたりの論調になんだかちかい記事づくりとみました。橋下氏とはうまくいってない過去の経緯があるようです。
読売はどこを向いているのか不明。
結局スポーツ新聞あたりの感覚で府政や市政をみているのがいちばんわかりやすい、というのがどうも真相です。いまのところはそれでいいのでしょうか。そんな理解が非常に難しいことはなにもないです。ふたりともかなりすぐれたスポーツ系の政治家と見ました。

わたくしがまったくわからないのが経済です。国家の税収が45兆円とかそれに対して支出の国家予算が90兆円だそうです。赤字は国債とか。これでいったいいつまでこれを続けようとしているのか。もう借金は千兆とかです。破綻は起きないのか、起きるに決まっていると思うのですが、みなさん、わたくしも含めて毎日平然と過ごしています。実際にはもう破綻しているのでしょうが。
そのあたりこれからどうなるのか、隅々までよくわかる解説が欲しいのですが。

by yanagidamitsuhiro | 2011-11-28 19:26
2011年 11月 27日

里芋、シリア戦、大阪市長、府知事選、文春新潮両社、独裁者呼ばわりした人たちは

北京での講演準備。
比良の家に行って、里芋を収穫。ヒゲ根をとったり土を除けたり時間がかかります。
よる食べました。おいしい。しあわせです。自分で汗水たらしたものを収穫して食べておいしいとほんと幸せです。

よる、最初はサッカーシリア戦を見ました。シリア強い。ただ、きれいでないマナー。幸い大津選手のヘッディングシュートで勝ちました。これでロンドンオリンピックが至近距離になったのでしょうか。

そのあと、チャンネルをまわしたら、大阪市長、府知事選挙戦の結果まだ一票もでてないのに、橋下、松井コンビの勝利とのNHKの報道。しらけますが、しかし大阪府民市民の民意はいかなるマスコミの妨害にあってもしっかり出たな、と感じました。
前にも触れましたが、週刊新潮の記事(他はあまりみてない)はあれを米国でやれば会社が即刻つぶれるとおもいました。
文春にしても、週刊誌が母屋を倒してしまうような、偏見と差別感に満ちた記事をだしてはいけません。今からでも遅くないから、謝罪をしたほうがいいとおもう。あとあと、これは尾を引くでしょう。早ければ早いほどいい。特に橋下氏の苗字の由来までかいた週刊新潮の悪さはちょっと信じがたい。
部落差別のねっこに苗字に対する偏見があり、おそるべきネガティブな影響を日本社会にもたらしています。週刊新潮がおりおりにヒットを記事をだすのは認めますが、こういう記事を一本出せば母屋の会社がつぶれる、ということを日本社会はなるべく早く示した方がいい。
真の意味で普通の常識を働かせ、人権を尊重しないといけません。

特に橋下知事を独裁者呼ばわりをしている人たちは今後も言い続けるのでしょうか。その論拠を検証し、確かめていく必要があります。マスコミで論陣を張る以上、責任があるでしょう。選挙時のデマゴギーだとしたら、これも本当に問題です。

さっきまで松井、橋下両氏の会見を聞いていましたが、真っ当な意見のようにわたくしには聞こえました。独裁者の片りんがでるのか、つかまえることはできませんでした。強い意見をいうからでしょうか。

by yanagidamitsuhiro | 2011-11-27 22:34
2011年 11月 26日

墓誌石のそこはかとない[願望」、沖縄に世界企業を狙う若者いでよ

義父の13回忌が護国寺でありました。子供、孫、ひ孫など家族が沢山集まりました。
わたくしが最高齢です。そういう立場になりました。

墓地をめぐると墓石と同じくらいの数の墓誌なるものを刻んだ石があります。わたくしこれが昔から好きでありません。沢山刻めるように、右から刻んでいるのですが、二行とか三行であとは空白の墓誌の石をみると早く4行目を埋めたいかのような石のそこはかとない[希望]を感じてしまうのです。だいたい死者の墓誌をまるで予定表を生めるようにした、墓誌石がなぜ人気があるのか、わからないのです。墓石屋ビジネスの悪しき製品というのがわたくしのいつもの偏見的感想です。

このあいだの那覇市での知的クラスターの推進会合で、わたくし発表しているときに、沖縄の地場産業ということばを2,3度使いましたが、その時にああ駄目だな、という感じをみずから持ちました。
つまり沖縄の地場産業といっても鼓舞されない、元気も出ないし、実体は何かも分からない。そもそもそういうスローガンは大きなスローガンとして成立しないな、と思いました。詳しい説明はたいした意義もないので、この際しません。
そのかわりに、別なスローガンがあるはずだと思いました。
それが、沖縄から本田宗一郎、スティーブジョブズ、出よ、でした。
別に表現すると、沖縄に世界企業をめざす若者、出よ、です。

沖縄県は日本国内での小中学生の学力最下位だそうです。そうだろう、と思います。また、経済コンサルタントの気が効いたひとはすべて、沖縄での製造業は将来にわたって、まったく希望無し、ホープレスなのだそうです。それも、常識的にはまちがいなく、そうなのだと思います。
だから非常識な若者が沖縄に出現して欲しい。もちろん狙いは徒手空拳から世界企業の創出です。
非常識じゃなきやだめ、と本田宗一郎氏も言いました。
沖縄にはこれといった大企業も無いので、邪魔や意地悪をする企業もないでしょうから、
それに徒手空拳から大きな企業を作った人もいません。例えば京都市などではこの50年以内に小さな個人企業から世界企業に発展したのは5本の指にあまります。
世界企業ゼロの沖縄県から始めて世界企業を作れば、歴史に残る大快挙となるでしょう。どんな世界企業かはわたくしにはまったく分かりません。ただ創設者はやはり京セラの稲森氏のように、外からやってきた若者ではないでしょうか。その稲森氏は京セラという社名をつくり、また世界に知られた京都賞を創設しました。

by yanagidamitsuhiro | 2011-11-26 18:15
2011年 11月 25日

これまで割けなかったエネルギーが、義理の父と実の父と

百万遍のオフィスで昨日と今日と。周辺はどこも紅葉をもとめる観光客がいっぱい。
Aさんの論文はわたくしのレベルでは片付いたので、これまで割けなかったエネルギーを別の方向にむけます。書かなければならない、論文がすぐおもいつくだけでも片手以上にあるので、どれから始めるべきか。
立ち枯れのものは無いのですが、でもやった本人がいなくなった場合、不満なデータをどうするか、ほんと頭を悩ます問題です。90%はやっているのに。これが研究室経営者の最大の頭痛の種。教授みずからがデータ捏造に向かったケースなどは、やりっ放しでいなくなった連中の後始末から起きたケースもあるのです。立つ鳥後を濁すような研究者は日本は多いのかもしれません。契約社会ではありませんから。
昼過ぎから、新幹線で東京へ。お祝いの会ということで、夜に親しかった高校同級生の仲間と夫人同伴で、会食をします。
楽しみです。わたくしが出た高校は都立ですがいまはどんな校風なのか。女子学習院の通学路を上からのぞけたものでした。あえば懐かしいむかしのがきというのか少年の心にすぐ戻れます。仲間のひとり田中洋一が死んでしまっていません。生きていて欲しかった。同級の江崎格夫妻には結婚式の媒酌を頼んだものでした。もう40年近く前のことです。

そして、あしたは、義父の13回忌が護国寺であります。あり得ないと思っても、こんどの勲章のことをしれば実の父である久と義父繁のふたりがまちがいなく無条件でいちばん喜んでくれただろう、とついついおもってしまいます。どういうセリフがでるのか聞きたかったものです。
わたくしは正直じぶんではどうでもいいのですが、周囲の人たちの喜びをみると自分も嬉しくなる、そういうことです。
とくに、わたくしを若い頃から見ていたふたりの父親には、これがわたくしの長年やって努力を傾けて来たことへの、平成天皇が象徴している日本社会からのご褒美ということで、勲章と勲記を見せてあげたかった。

by yanagidamitsuhiro | 2011-11-25 15:02
2011年 11月 24日

立川談志さんの死

立川談志さんが亡くなりました。
興味深い人でした。読売の記事で、お子さんへのインタビューがでていました。
長いのですが、途中から引用させてもらいます。
山田風太郎氏がいきていたらどう言ったでしょうか。

声帯をとってほしいと医師からは言われた。ただ、しゃべる仕事をしており、まして立川談志だったので、「分かった」はない、本人もプライドは許さないと、摘出手術は拒否した。表面のがんだけ取り除く形で、自分の声で話せるかぎり、今年3月まで高座にたちつづけた。
 3月の終わりぐらいに気管切開。それからは、在宅治療と入院治療を続けていた。その間、危険な状態もあったが、きゃしゃに見えても強くて、今までの経験で乗り越えてきた。
 先月27日に容体が急変し、心肺停止までいきました。心臓はすぐ動き始め、それからも3週間、医者もびっくりするくらい、強く、生きていた。
 在宅治療中、本人も苦しかったと思う。飲めない、食べられない、しゃべれない。しゃべれないのが何より苦しいようだったが、一度も苦しいとは言わない。最後も家族が全員たちあって、穏やかに亡くなりました。

遺言ではないが、葬儀をしないでくれ、骨は海にまいてくれ
立川雲黒斎家元勝手居士

弓子さん おしゃべりで、毒舌の父が一言も口がきけなくなるということは、それはそれは切なく、いじらしく、声を失わなければ味わわなかった思いはもちろん、すごくたくさんあったと思う。それ以前の父は、破天荒で子供の頃から、テレビと家で言ってることは同じ。まったく外と家と変わらなかった。ただ声を失い、自分のことができなくなって、要介護度5になって、なってみないと分からない思いは、双方にあったと思う。

弓子さん 勝手な人だったのが、我慢をせざるをえなくなる。吸引や、してもらわないといけないことがたくさん発生するわけですから。人にお願いすることは、しゃべれてたらなかっただろうね。(病状が進んで)食べられなくなったが、食べたいというより、しゃべりたいという方が多かった。
 ――亡くなる直前のお父さんと比べて変わったか。
 慎太郎さん しゃべれなくなってから変わった。
 弓子さん ある意味、なかなか死ななかった。
 慎太郎さん 力強く生きていた。
 弓子さん 強さも見せつけられたね。
 ――父親として、家族にとってはどんな存在だったのか。
 慎太郎さん 今思うと、家族孝行の父だったと思う。意外かもしれないが、結果的にそうだった。医師から病状を知らされてから、気持ちの整理をする時間もありましたし、時間を十分与えてもらい、家族が苦しまないように、人生成り行きかもしれないが、悲しまないように。死に様が見事だったと思う。家族にとっては、すごい父親だったと思う。
 弓子さん 本人はふとした病で死にたいと言っていたので、あの頑張りは、私たちのためにしてくれたのだと思う。

弓子さん 病気になってから泣き言は言わなかった。
 再発は分かっていたと思う。気道を確保する時、しゃべれなくなると主治医に言われていなかったので、驚いたようです。筆談の第一声が「しゃべれるようになるのか」だった。本当に答えられなかった、手術の直後は。
 ――答えられないことで状況を察したのか。
 弓子さん そうだと思う。
 ――病状は周囲に話したのか。
 慎太郎 家族にだけ。体力、気力も落ちていたので、色んな方に心配かけますし、本人にも穏やかな環境で過ごしてほしかったので、家族だけにしようと思った。悩んだが、一門の人間にも伝えなかった。
 弓子さん しゃべれなくなった立川談志を、家族はさらしたくなかった。お弟子さんとは夏ぐらいに一席を設けて、会ってもらった。それがお弟子さんにあった最後になった。
 ――師匠の様子は。
 慎太郎さん 弟子に会うので楽しみにしていた
 弓子 体温が39度ぐらいあったのに、熱が下がる注射をしてもらい、担がれるようにして行った。お弟子さんの前には、びっくりするぐらいしっかりしていた。しゃべれませんでしたが。

――確認だが、家族としては、「余命2、3か月」と本人に言っていないが察知したかもしれない、と思うか。
 慎太郎さん してないと思う。
 ――高座に向かう時の談志さんには、覚悟があった様子か。
 慎太郎さん かなり強い意欲を持っていたと思う。声はかすれて。
 弓子さん 出ない声で、あの「芝浜」なんかは……
 ――昨年暮れの読売ホールの?
 弓子さん そうです。ふつうの人ではあり得ないと思う。声の出る限り、落語を愛していたんだと思う。
 ――それ以降は。
 慎太郎さん 昨年12月の読売ホールがあって、3月までに3回くらいだと思う。
 ――談志さんが生前好きだった思い出の場所などは。
 弓子さん 家で食べるのが好きな人でした。
 慎太郎さん その時代で好きなものはかなり変わったが、だんだん言わなくなった。最初のうちはヨーグルトとバナナでこれは「チンパンジー食」だといったりして。
 弓子さん 食欲がどんどん無くなってきた。気管切開をした後にステーキを焼いたら、俺も食べる、と言って。本当に小さく切って食べたら、それが気管に引っかかって、それで死にそうになったんです。外食は去年のクリスマスに洋食屋さんに行ったのが最後ですね。
 ――葬儀で流した曲は。
弓子さん 「ザッツ・ア・プレンティー」です。これで満足という意味です。


朝日新聞
談志さん、戒名は自分で 手術後最初に「声は出るのか」
 立川談志さんの長男松岡慎太郎さん(45)と長女弓子さん(48)は23日夜、東京都内で記者会見し、最期まで落語家を貫いた闘病生活を明かした。
 談志さんは3年前に発症した喉頭(こうとう)がんが昨年11月に再発。家族は「余命2、3カ月」と宣告された。本人は「プライドが許さない」と声帯摘出手術をしなかった。今年3月の高座を最後に活動は休止。がんの進行で呼吸困難に陥り、気管切開手術をした。筆談の第一声は「しゃべれるのか、声は出るのか」だった。
 闘病中、弟子たちとは夏に一度会っただけ。友人らと会うことはなかった。弓子さんは「肉体的にも気力も落ち、声の出ない談志をさらしたくなかった」と話した。23日午後3時に密葬が終わるまで、弟子たちも死去を知らなかった。
 のどを切開後にステーキを食べようとして死にかけるなど、最期まで破天荒だった。戒名は生前に自分でつけた「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」。

日本経済新聞
奔放な芸風で落語界の寵児(ちょうじ)として活躍した落語家で元参院議員の立川談志(たてかわ・だんし、本名=松岡克由=まつおか・かつよし)さんが21日午後2時24分、喉頭がんのため東京都内の病院で死去した。75歳だった。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は妻、則子さん。
 東京・小石川生まれ。1952年高校を中退して五代目柳家小さんに入門。63年、五代目立川談志を襲名して真打ちとなる。毒舌でも知られ、テレビ番組「笑点」の司会や映画・舞台など幅広く活躍、人気を集めた。
 71年、無所属で参院選に立候補し当選、後に自民党に入党し77年まで務めた。沖縄開発庁政務次官の時に酔ったうえでの放言で次官を辞任した。
 83年に真打ち制度をめぐって落語協会を脱退、落語立川流を創設し家元となる。97年9月に食道がんを公表、昨年11月に喉頭がんを再発。本人の希望で声帯摘出手術は行わず、高座に上がり続けたが、今年3月を最後に活動を休止していた。
 著書に「現代落語論」「立川談志遺言大全集」など。

  ◇  

 長男の松岡慎太郎さんらが23日夜、都内で記者会見し、談志さんが生前に「葬儀はしないでくれ」と話し、自ら戒名を「立川雲黒斎家元勝手居士」と決めていたことなどを明かした。


NHK
談志さん遺族 闘病中の様子語る
11月24日 0時16分
立川談志さんの遺族が23日夜、記者会見を開き、談志さんの闘病中の様子などを語りました。東京都内のホテルで開かれた会見には、談志さんの所属事務所の社長も務める長男の松岡慎太郎さんと、長女の弓子さんが出席しました。談志さんの葬儀は、生前の談志さんの意向で、近親者だけで23日午後、執り行ったということです。葬儀の様子について、2人は「棺の中にトレードマークのヘアバンドや、かわいがっていた縫いぐるみを入れました。身に着けた紋付きの羽織はかまなどがすごく似合い、格好よかったです」と話しました。談志さんは、去年11月に喉頭がんが再発したあと、声帯を摘出する手術を受けず、ことし3月に呼吸が苦しくなって気管を切開したあとは、筆談で意思を伝えていたということです。闘病中の様子について、2人は「つらいことを表に出さない父でしたが、しゃべることができないことはつらそうでした。ことしの夏に一門の人たちと最後に会ったときは、立つこともできない状況でしたが、楽しんでいた様子でした」と説明しました。父親としての談志さんの思い出について、弓子さんは「父は家にいてもテレビと同じで破天荒な人でしたが、声を失ってから亡くなるまでの8か月間は、初めて毎日一緒にいるなかで、実は紳士的で優しい人だったということが分かりました。そうした時間を持つことができたのはよかったです」と話していました。談志さんの戒名は、生前に談志さんが自分で付けた「立川雲黒斎家元勝手居士」(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)だということです。今後、談志さんと親しかった人やファンのために、東京でお別れの会が予定されているということです。
琉球新報
古典落語の名手で、破天荒な言動と生き方でも注目を集めた落語家の立川談志(本名松岡克由)さんが死去したことが、23日分かった。75歳。東京都出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。
沖縄タイムス
古典落語の名手で、破天荒な言動と生き方でも注目を集めた落語家の立川談志(たてかわ・だんし、本名松岡克由=まつおか・かつよし)さんが死去したことが、23日分かった。75歳。東京都出身。葬儀・告別式の日取り、喪主などは未定。
 1952年、五代目柳家小さんさんに入門した。63年に談志を襲名し、真打ちに昇進。テレビ番組「笑点」の司会で売れっ子となった。
 71年、参院選全国区に出馬し当選、75年には沖縄開発政務次官に就任したが、記者会見での発言がもとで、約1カ月で辞任した。
 83年には落語協会を脱退、立川流を設立し、自ら家元を名乗って後進を育てた。古典落語の名手として知られる一方、歯に衣(きぬ)着せぬ毒舌は有名だった。

死ぬことによって、みずからの芸風を世間にまた知らしめたのでした。

わたくしも自分の死期がそろそろ気配を見せ始める年齢となりましたので、身につまされてこれらの記事を読みました。
立川談志さんは沖縄とも縁があるのですが、それはまた将来できたら触れたいです。

by yanagidamitsuhiro | 2011-11-24 12:59
2011年 11月 23日

来週の北京訪問、大学院大学わたくしなりの中間の答え

きょうから2週間、沖縄を離れます。来週はずっと北京です。
わたくしにとって、中国は最初に訪問した10数年前は分からない国でした。数年前に北京、上海に行ったときには分かる国になり。最近の合肥のときはもっとよく分かる国になりました。分かる国になった理由は知己のある中国人科学者の招待でいくようになってからです。やはりその国の人と会って話しをして色々経験をすることでその国の様子は格段にわかるようになりますね。それだけでなく、今の中国は日本よりもずっとわかりやすい国になってきていると思います。そのあたりが多くの日本人には分からないのだと思います。中国人は合理的です。わびもさびも、無いというと語弊がありますが、でもそう思ったほうがいいでしょう。あうんの呼吸はあるでしょうか。わたくしは欧米よりはあると思います。でもなかなかやり方が違うかな。誠意は通じると思います。でも日本的な誠意とは違うのでしょう。わたくしは、誠意というよりは、常に好意を持つ、をモットーにしています。それで裏切られたことは一度もありません。
さて今回は中国の東大にあたる北京大学です。前にも訪問しましたが、そのときは中国の最先端生物学研究所の訪問のついでのような感じでした。今回は正面からの訪問で、そのうえメインキャンパスと医学部と二つ講演もするし、いろいろよい経験も積めるし、あたらしい友人もできるでしょう。

さてわたくしの働き場所、大学院大学です。
うんざり、というのがひと言での実感です。それは理事会や学内執行部の縁故主義の蔓延が原因ですし、また統治能力のレベルの低さと指導能力の劣悪さにともなういろいろなレベルでみる無能力、無責任、それに批判勢力の欠落、がもたらす組織的なだるさもわたくしの憂鬱の原因です。

しかし、こんかいわたくしなりに体をはって(?)やったこともあり、中間の答えが得られました。
この縁故の問題の元凶のひとりこそ理事会の議長であると。新大学院大学の最高権力者です。かれが縁故、ネポティズムの元締めでした。
もっと前から知ってなければいけなかったことでした。もうひとりのわたくしが、わたくしにおまえはアホか、といっています。それでその一人のわたくしがうなだれているところです。

でも身をもってわかりました。もうこういうえらい人達に幻想もなにもありません。沖縄がこの御仁たちとその縁故者、追従者のこれ以上の被害者にならないように見張りましょう。

しかし、いくら言っても沖縄メディアも本土メディアもまったくとりあげません。だから、あとでわたくしのような内部の人間が非難されることだけは無いようになっています。
わたくしなりにメディアへの働きかけは最大限やるだけやったし、もう充分、いいですよ、という気分です。

by yanagidamitsuhiro | 2011-11-23 08:03
2011年 11月 22日

ちょっと疲れたかな、名刺辞令

さっき那覇から戻りました。知的クラスターの推進委員会というもので、一緒にやっている5グループみなさんが研究進捗のはなしをして、委員の方々がいろいろコメントやアドバイスをするという会合です。
非常に意義がありました。進展したな、という実感がありました。皆さんたいへんに面白いはなしで、自画自賛ではないですが、いいクラスターでないかと思いました。それなりの批判は受けましたが総じて好意的かつ建設的な意見を聞けたのはありがたいことでした。
わたくしにはほとんど経験のない開発的な研究でかつその責任者という役割もあってそれなりに、頭か体のどこかで緊張していたのでしょう。戻ってきて自分が疲れているのを自覚しました。

そういえば、この大学院大学開学しましたが、教員については、自分のポジションがどうなっているのか、他の方がどういうポジションなのか分かるすべがないことが、Sさんからのメールで判明しました。
わたくしも名刺をもらってまた教授に戻れてなんとなく喜んだのですが、ウェブサイトのどこをみても、自分も誰それさんもなんのポジションなのか、わかりません。
名刺辞令でいいかとも思いますが、一覧表も作ってないのは寂しいですね。
ただだれがどういう基準で格付けをしたのか、よく知りません。というか、どっちみち分からないことばかりのところですから。格付けの理由を開示して欲しいという人たちがでてきて不思議はないとおもいます。これまではみなさんPIで平等でした。

by yanagidamitsuhiro | 2011-11-22 21:05
2011年 11月 22日

日本の国土に建つ外国人縁故大学院大学 その創立記念の日

昨日のわたくしの述懐にはすこし解説がひつようでしょう。
わたくしはこの大学のわたくしの目から見た不正行為がまかりとおる状況を憂えて、もちろん最初は日本人職員にアプローチを試みていましたが、そのトップがみかけ追い出される状況となり、しかたなく、外部設立委員のトップに(つまり現在の理事会議長)にその状況を伝えました。
全部で10回近く往復の連絡がありました。わたくしと、彼と、彼の信頼するメンバー二人だけが読めるようにした連絡でした。絶対内緒にしなさい。なぜなら、大学創立まではわれわれには力がない。
しかしひとたび大学が創立すれば、自分たちが最強の立場になるので、その日がくるまでは用心してください。
かれは紳士的にわたくしの訴えを聞いてくれたと思っていましたが、しかし、わたくしの訴えがかれのむかしからの縁故者であるプロボーストと副学長のこととなると、まったく異なるというのはわたくしも気がついていました。
わたくしがアピールを学長止まりにしていたらば、今回も展開は違っていたかもしれません。それはわたくしも気がついていました。
しかしそれをやったら、わたくしも縁故ネットワークの一人になってしまうでしょう。
わたくしは、国内外で営々と半世紀ちかく研究をし続けて来ました。わたくしが正直であり、それをもとに学問的信用をかち得てきたことは疑いありません。
このノーベル賞受賞者は現場の研究者のアピールを一顧だにせず創立の日の晩餐会でえんえんこのプロボーストと副学長を賞賛しまっくっていたというではないですか。
もっとも初期から、わたくしや銅谷さんや研究室のメンバーが、これまで8年間、この大学院大学設立のために沖縄のうるま市のようなところでもちゃんと学問ができるということを実証した人々が、自分で言うのも変ですが、最大の貢献者じゃないか。
今回の文化勲章受章の理由書にもわたくしの沖縄での研究を大きく評価してくれているのは本当にうれしかった。
こういう縁故でこりかたまった連中がノーベル賞の受賞お偉いさんなら、もう日本はいい加減目をさますべきです。自分のそういう名誉を武器にして外国までいってみずからのかつての名声に泥を塗る、もっとも情けない人物と思います。
このブログを読むスエーデン大使館のひとがいるとも思えませんが、こういう出来事はスエーデンという国に泥も塗っています。

この日本の国土にたつ大学院大学が大学内部の研究者の声にまったく声をかさない、わたくしは弱い人間なので、これ以上のことはできません。
なんとか誰かがこの組織をなんとかして欲しい。そうでないと、もう大学といえるような環境には決してなれない、と感じるのです。
最初の頃、まさにinitial researchの頃、ノーベル賞受賞者が影も形もいなかった頃、本当に研究がしやすかった。あのときに今ある研究成果の萌芽がすべてあった。
そしてとうとう創立の日、わたくしの心は限りなくむなしいです。

by yanagidamitsuhiro | 2011-11-22 07:05