生きるすべ IKIRU-SUBE 柳田充弘ブログ

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2015年 01月 26日

沖縄の古代人

家に戻って作った晩ご飯を食べながらテレビを見ていますと琉球テレビが、特集番組で本島南部サキタリ洞で最近見つかった人の骨や装飾品について詳しくとりあげていました。なかなか力のこもったものでとうとうこういう番組ができたかと嬉しく思いました。

確かに港川人は1.5万年前の旧石器時代の骨でそれから縄文人の間には1万年くらいの時が空いていたので、それを埋める遺跡が見つかるのは大変すばらしいことで、いまや日本古代人についての遺跡は沖縄が独壇場になりつつあります。
最近見つかったのは顔の部分で歯まで残っていますから顔の復元もかなり正確にできそうです。
しかも解説ではDNAも回収出来る可能性があるとのことですから、すばらしい可能性が秘められています。
サキタリ洞の装飾品については前に県立博物館で展示があったときにわざわざ行ったのですが、1時間くらいの間に数人くらいしか来ていなくてちょっとがっかりしました。こういう番組ができたからには来られる人も今後はずっと増えて来そうです。
ただ番組つくりとして、今の沖縄人、日本人とどうつながるのかあまり説明がなかったです。
ぜひ現代人とつながるということで気持ちをかき立てるかたちで番組を作ってほしいです。
その可能性が非常に高いのですから。
ガンガラー谷の発掘は非常に楽しみですが、まだまだ発掘できるばしょは本島に色々あるのではないでしょうか。港川人の遺跡もちかくとはいえ海のそばですからだいぶ離れていますし、もっと遠くなら石垣島とかまだまだ沢山ありそうなので沖縄が一大古代人の遺跡の集積地になるのではないか。
沖縄が石灰岩に豊富なこと洞窟や鍾乳洞もおおいのですから、これから多くの素晴らしい古代人遺跡が見つかるでしょう。

by yanagidamitsuhiro | 2015-01-26 22:24
2015年 01月 17日

阪神淡路大震災、20周年

阪神淡路大震災が起きてから20年経ちました。
なんべんかこのブログでもとりあげましたが、東北大震災という出来事もあり、多くの人々があの神戸での大災害に心を寄せているでしょう、わたくしもまたなにか書きたくなりました。
20年前、わたくしまだ50代前半でした。朝の5時47分か46分にわたくしの家でも激しい揺れがありました。人生で一番きつい揺れ、これが地震を感じた最初の意識で、ベッド脇の洋服タンスがわたくしの足に倒れてこないようにタンスを押さえたのが最初の行動でした。飼い猫がおしっこをもらしながら部屋から廊下のほうに逃げていくのをみて、その後、階下から食器の割れる音がしばらく続きました。
家族の無事、しばらくしてラボで学位論文書きで寝泊まりしていたK君からラボでは特に被害はないという連絡がありました。地震災害訓練の豊かな静岡出身のK君だからこそできる的確な報告でした。
その日の朝はフランスのストラスブールに向けての旅行日でした。関空に朝から向かうつもりでしたが、もちろん電車も止まり、空港の橋も渡れないそうで、それでもスーツケーを持ち午前中にとりあえず京都まで行きました。被害の様子はなかなか分からないで、その恐ろしいほどの被害の甚大さは時間と共に明らかになったのですが、しばらくはわからずわたくしはフランスへいかに行くべきか、HFSPOという国際組織の審査委員会での義務を果たしたい、あんなに沢山の候補研究申請書を読んだのでなんとかしたいと京大の研究室でニュースを聞きながら考えていました。
被害は時と共に甚大であり、死者は少ないかもしれないが、倒壊した建造物は非常に多いというニュースがありました。後の大火災で倒壊した家の中で逃げられなかった多くの方々が命を落としたとしりました。いまでもそのことを思うと胸が苦しくなります。

京阪電車で大阪に向かい、そのあと南海電車を使えば空港に行けるのではないかと思い、淀屋橋までいけました。そのあとはたぶんJRで関空に行ったのだと思います。夕方にたどり着きました。
なんとわたくしの乗ろうとした午前に出るはずの飛行機はまだ空港にいたのですが、少し前に滑走路向かって動き出したとのこと。惜しくも乗れずでしかたなく泉佐野のちいさなビジネスホテルに一泊し翌朝ストラスブールに向かいました。飛行機からは神戸市は煙でほとんど見えない状況でした。
神戸市の状況の正確な把握は随分時間が経ってからで、多くの人々がなにか出来ないものかと被害地に向かったものです。日本での本格的なボランティア活動の元年とも言われていると聞きます。
東北大震災では20年前の阪神淡路震災で経験を積んだ沢山の人々が東北に向かったと聞きます。
わたくしもその後なんどか出かけて災害の深甚さと徐々に回復していく町や人々の様子を見てきました。後に震源地の近くも訪問することもできて、乏しい知識と体験ながらも自分なりの考えをつくることが可能になりました。当初はいろいろな悲劇的な出来事に対しての責任問題なども論じられましたが、そのうち日本人らしく人を責めるよりもともあれ復興に向かう、学ぶことはみな沢山学んだので次に生かしてという考えが強くなったとおもうのです。
それで良かったのかどうかは分かりませんが、東北の大震災についても同じような経過をたどっているような気がします。

20年がたち、わたくしもしっかり年をとってしまいました。
当時のラボメンバーいまはどうしているのだろうと考えたくても当時のラボメンバーがひとりずつ明瞭に思い出せません。
いまスコットランドでラボを持っているS君は両親がおられる自宅のある宝塚にもどるのに非常に苦労したと印象的に聞いたのを思い出しました。
多くが学生だった若者で関西出身者が多かったのですが、きょうあたりどんな風にかんがえているか、会ってみて話してみたいなあ、恩納村の家から海の遠くを見ながら、強く思いました。

by yanagidamitsuhiro | 2015-01-17 12:40
2015年 01月 03日

2015年 不安と期待

2015年になりました。
多くの人々には期待と不安が交錯した年のはじめでしょうか。
不安の一因は、日本という国の実情はお役所や報道で理解しているのと実際はかなりの違いがあるのではないか、自分たちは日本という国をちゃんと分かっているのか、ということでしょうか。
わたくし自身もそのような感覚が強いです。
いちばんショッキングななのは子供の相当数が十分に食べてない、食べられないという報道に接することです。また高齢者の貧困層が増加の一途であるという記事をよむことが増えることです。
しかし現実に町を歩いたり人々が大勢いるところに行くとそのような感覚をつかむことはほとんどありません。
将来の不安は増えてきたものの目の前の社会に格別な兆候を認めることは難しい。
日本は昔から生活に苦しい人達は沢山いたし、だからこそ身を粉にして働くとかいう表現が当たり前のようにあったわけです。日本が富裕な国であるなどと「錯覚した」のは戦後70年間でもごくごくわずかな時期だけだったでしょう。
でもこれからもっと思いもよらない社会問題がでてくるのではないか、という不安は多くの人々に共有されているのだとおもいます。
わたくしは人間の寿命のことを研究テーマの一つにしてからずいぶん日本の社会を見る目が変わってきました。
寿命がのびるのは素晴らしいことのようだけれども、実際には日本社会にとっては一番予想外のことが起きる原因になるのではないか、と感じだしています。
いっぽうで高齢者の能力や有用性が社会的にほとんど利用されていないとも強く感じています。
高齢者の能力、分かっているようだけれども実はほとんど理解されてないのではないか、思います。
前向き的な発言をさせていただくと、高齢者のもつ独自な能力を研究テーマとして探求することが非常に大切だし、日本という国家の将来を考えるうえでもとても大切だと思うのです。

話が横道にそれたような気もしますが、しかし日本の未来は高齢者がいかに社会にいかにかかわるかで随分変わってくると思うのです。
ひと言でいえばなんらかの生産性のある仕事にだれもが死ぬまで従事できる社会をいかに未来にむけて作れるかだと思うのです。

by yanagidamitsuhiro | 2015-01-03 00:13