生きるすべ IKIRU-SUBE 柳田充弘ブログ

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2010年 05月 08日

倫理への挑戦は生命科学研究の自由を拡大するか?

えー、きょうもコピーペースト的なのですが、まず「倫理への問いと大学の使命」という京都大学出版会から最近でた本の写真を下に出します。法学部の位田先生などが編集されていましてわたくしもその中の一章を書いています。目次にある、「倫理への挑戦は生命科学研究の自由を拡大するか?」というのです。堅いし値段も高いので、買う人はあまりいないのではないか、とおもいちょっと宣伝をしておきます。
わたくしも原稿用紙だと30枚以上もせっかく書いたので、できるだけ多くの人達に読んでもらいたい、と思います。それで、そのごく一部を引用して下に掲げておきます。これは面白いとおもわれましたら、ぜひ買って読んでくださいね。
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倫理への挑戦は生命科学研究の自由を拡大するか?
<はじめに>
 わたくしがお話しをしてみたいのは、倫理へ挑戦することが生命科学研究の自由を拡大するのではないか、という可能性です。逆の言い方をすると「倫理への挑戦をしないと、生命科学研究の自由は拡大しない」のではないか。こういう言い方は、今日の主テーマとはずれてしまうし、もしかしたら反するのかもしれません。しかし、研究というのは従来の「旧概念」を打破して「新概念」をうちたてることをモットーとするのです。倫理は往々にして「旧概念」の範疇に属するものが多いことは人類の歴史を見るまでもなく明らかです。ですから、確立した倫理への挑戦は研究者としては当然考えるものです。ただ、考えることと実際に行為に移す間には大きなギャップがあるのです。つまり、倫理というのは社会的な規範や法とも関連があり、倫理に挑戦することは、場合によって法律違反であり社会的に罰せられるかもしれないのは当然です。
 どちらかというと研究者は、研究の進展のためにすべてをなげうつような傾向のある人達です。倫理の一部には挑戦せざるをえない、つまり守っていては新しい研究ができない。新しい進歩のためには挑戦的な研究をせざるをえない。研究者の一部にこういう気持ちをもつ状況が生まれることはあります。倫理の中には時代の経過によって古びたり、守る意義がなくなったと感ぜられるものがあるかもしれません。
 しかし、社会を構成するほとんどの人々は規範を守り法律を遵守するのです。研究者だけが勝手に自分たちだけの倫理規範を作るわけにはいきません。大多数の人々の反撥を買っては新しい研究どころか、研究そのものが出来なくなるかもしれません。一方で、たとえ社会に反発がなくても、司法や法治の側が法律違反として研究者の身柄を拘束しかつ罰するかもしれません。そういう立場になった研究者はどうするのでしょう。これは、決して荒唐無稽な話ではなく倫理に挑戦する研究や医療行為をするのなら、最低限この程度のことは考えないといけないでしょう。
 一方で、研究の自由を拡大することが常に良いことなのかどうか分からない、という立場の人もいるでしょう。社会に意見の分裂を招き、また不安を引き起こす可能性があります。また倫理に挑戦する姿勢自体が悪であると断罪される可能性もあります。結果として研究の自由が以前よりも狭められる可能性もあります。研究、とくに人間を対象とする生命科学や医学のフロントには多くの難しい倫理的な問題が横たわっていて、一つの理論ですべてに対応するのが困難に思えます。
 というわけで、研究倫理はとても難しい問題なのです。半端な気持ちでこの問題に向き合うことは出来ません。しかし一方で問題を先送りもできません。世の中では少数の人達が常に社会の通常の規範とは異なった人生を送っていて、彼等は常に社会の中でのかれらの不自由さの改善を願っているのです。少数派だからと無視して問題を放置することはできません。この少数の人達にもよりよく生きる権利があるからです。生命の倫理に関わる問題は実はこの少数派の人々の生活スタイルと密接に関わるものや、希な病気にかかった人達や生まれつきの障碍をもった人々に関わることも多いのです。一刻も早い規制の撤廃を願っている人達もいます。異性でなく同性の人と結婚をして家庭を持ちたいと願うような人々も含まれます。

途中を略して以下に最後の部分を掲げておきます。

<個人の自由の増大と生命倫理の変化>
 倫理の基準は時代、国や民族によって著しく異なります。また、信ずる宗教によっても異なるものです。もちろん個人ベースでは著しい広がりを持っています。ですから、ゲノム研究がこれまでおよそ一つの基準によって行われてきたことは大変珍しいことでした。しかし、研究の時代からゲノム産業とでもいえる時代がやってきて、そのような一つの倫理基準で今後も地球規模でやっていけるのかどうか、判然としてこなくなりました。
 たとえば、相当な金額をだせば自分のゲノム情報が分かる場合には、それは個人の資産の差にまかせるのでいいのか。個人の払える金額にまかせてゲノム個人情報が個人に所持されるということでよいのか。また基準は世界単一かそれとも国ごとで異なるのが当然なのか。
 また、ゲノム情報を個人として知りたくもなければ調べたくも無い人たちは当然沢山いるでしょう。しかし、就職の条件にゲノム個人情報を会社側に提供することを義務づけられたらどうなるでしょう。決して荒唐無稽ではない近未来の話です。ゲノム情報の最も簡素なものは男女の区別ですが、男女の欄がある以上、ゲノム個人情報が既に聞かれているのです。国によってはアジア系、コーカサス系、アフリカ系と人種欄に書かせることもあるのです。もっと詳細な情報を要求する会社が出てきても不思議はありません。もしもそうなったら、そのようなことは野放しでいいのか。個人情報はどこでどう保存されるのか、こういう点も問題になるでしょう。これからの個人ゲノム研究の展開次第では、色々な現在では考えられないようなことも多数、重要な個人情報として得られるでしょう。
 たとえば婚姻を予定した男女のうちの一人が離婚遺伝子とまで言われているAVPR1A遺伝子(つまりこの遺伝子の組み合わせによっては統計的に有意で離婚率が高くなるという知見がある)の個人情報の提供を求められる可能性もあります。これは個人と個人との関係で生じうるゲノム遺伝情報の提供の可否ともなります。HIVエイズウイルスの有無については、求められれば提供する義務があると考えられる以上、離婚しやすい遺伝子状態についても同様な考えが適応されるかもしれません。情報の提供を要求して名誉毀損で訴えられる可能性も訴訟社会ではありうるでしょう。
 このように、個人と国家の間、個人と会社の様な組織の間、そして個人と個人の間で、個人ゲノム情報の提供が係争となる可能性があります。しかも一つ一つが異なった問題を含有しており、それぞれ独自に解決していかねばなりません。規則を作るのであれば、違反した場合の罰則についても具体的に決めていく必要があります。それらを国ごとに統一などできるでしょうか。
 大麻や覚醒剤の違反が死刑のようなきわめて重い罰から法的な罰がほとんど何もない国まであるように、ゲノム個人情報の扱いについてのルール作りは非常に多様な問題を生みだすことを前もって知っておく必要があります。
 ゲノム個人情報をビジネスチャンスをとらえれば、ここで話題にした問題がすべて関わります。もうひとつ情報に値段がつくといいう新しい要因があります。倫理によって大きなお金が動くということがありうるのです。ゲノム個人情報の産業の周辺ではこれまでまったく考えられなかった「価値」が生みだされていくでしょう。色々な意味で「価値設定」については監視していく必要があるのでしょう。しかし、グローバル化されたいまの世界の状況では日本だけで決めるということはあまり意味がなく、世界のなかで未来を見据えて決めていく必要があるのでしょう。
 また個人ゲノム情報の正しい理解は生命科学や医学のしっかりした知識を必要とするために生きていくうえでこのような情報をみずから理解するための教育が課題となるでしょう。じぶんをよりよく知るためにも、ゲノム個人情報の把握に努める個人が増大すると考えられます。いっぽうで、社会はこの窮極の個人情報をどのように扱うのかコンセンサスを得ることが重要になるでしょう。問題は多岐にわたっています。個人レベルでの問題、行政や雇用する側の問題、そして個人情報とビジネスをしようとする側の問題とあるわけです。
 そしてじぶんのこととはいえ、みずからの個人情報をどこまで得ていいのかという問題もあります。個人の側から見ればみずからの病や死に関わるものであり、じぶんのゲノム個人情報はじぶんのためのよりよい生活として私的なものとして管理したいと思うのは当然でしょう。しかし、そのために個人の資産でゲノム情報を得るという行為が完全に自由となれば、そのような情報を持つものと持てないものの間に大きな格差が生じる可能性があります。
 個人のゲノム情報がもたらす問題は極めて興味深いものから困難なものまで多岐にわたっており、21世紀の最大の課題の一つになろうことは疑う余地はありません。

by yanagidamitsuhiro | 2010-05-08 09:40


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