生きるすべ IKIRU-SUBE 柳田充弘ブログ

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2011年 11月 24日

立川談志さんの死

立川談志さんが亡くなりました。
興味深い人でした。読売の記事で、お子さんへのインタビューがでていました。
長いのですが、途中から引用させてもらいます。
山田風太郎氏がいきていたらどう言ったでしょうか。

声帯をとってほしいと医師からは言われた。ただ、しゃべる仕事をしており、まして立川談志だったので、「分かった」はない、本人もプライドは許さないと、摘出手術は拒否した。表面のがんだけ取り除く形で、自分の声で話せるかぎり、今年3月まで高座にたちつづけた。
 3月の終わりぐらいに気管切開。それからは、在宅治療と入院治療を続けていた。その間、危険な状態もあったが、きゃしゃに見えても強くて、今までの経験で乗り越えてきた。
 先月27日に容体が急変し、心肺停止までいきました。心臓はすぐ動き始め、それからも3週間、医者もびっくりするくらい、強く、生きていた。
 在宅治療中、本人も苦しかったと思う。飲めない、食べられない、しゃべれない。しゃべれないのが何より苦しいようだったが、一度も苦しいとは言わない。最後も家族が全員たちあって、穏やかに亡くなりました。

遺言ではないが、葬儀をしないでくれ、骨は海にまいてくれ
立川雲黒斎家元勝手居士

弓子さん おしゃべりで、毒舌の父が一言も口がきけなくなるということは、それはそれは切なく、いじらしく、声を失わなければ味わわなかった思いはもちろん、すごくたくさんあったと思う。それ以前の父は、破天荒で子供の頃から、テレビと家で言ってることは同じ。まったく外と家と変わらなかった。ただ声を失い、自分のことができなくなって、要介護度5になって、なってみないと分からない思いは、双方にあったと思う。

弓子さん 勝手な人だったのが、我慢をせざるをえなくなる。吸引や、してもらわないといけないことがたくさん発生するわけですから。人にお願いすることは、しゃべれてたらなかっただろうね。(病状が進んで)食べられなくなったが、食べたいというより、しゃべりたいという方が多かった。
 ――亡くなる直前のお父さんと比べて変わったか。
 慎太郎さん しゃべれなくなってから変わった。
 弓子さん ある意味、なかなか死ななかった。
 慎太郎さん 力強く生きていた。
 弓子さん 強さも見せつけられたね。
 ――父親として、家族にとってはどんな存在だったのか。
 慎太郎さん 今思うと、家族孝行の父だったと思う。意外かもしれないが、結果的にそうだった。医師から病状を知らされてから、気持ちの整理をする時間もありましたし、時間を十分与えてもらい、家族が苦しまないように、人生成り行きかもしれないが、悲しまないように。死に様が見事だったと思う。家族にとっては、すごい父親だったと思う。
 弓子さん 本人はふとした病で死にたいと言っていたので、あの頑張りは、私たちのためにしてくれたのだと思う。

弓子さん 病気になってから泣き言は言わなかった。
 再発は分かっていたと思う。気道を確保する時、しゃべれなくなると主治医に言われていなかったので、驚いたようです。筆談の第一声が「しゃべれるようになるのか」だった。本当に答えられなかった、手術の直後は。
 ――答えられないことで状況を察したのか。
 弓子さん そうだと思う。
 ――病状は周囲に話したのか。
 慎太郎 家族にだけ。体力、気力も落ちていたので、色んな方に心配かけますし、本人にも穏やかな環境で過ごしてほしかったので、家族だけにしようと思った。悩んだが、一門の人間にも伝えなかった。
 弓子さん しゃべれなくなった立川談志を、家族はさらしたくなかった。お弟子さんとは夏ぐらいに一席を設けて、会ってもらった。それがお弟子さんにあった最後になった。
 ――師匠の様子は。
 慎太郎さん 弟子に会うので楽しみにしていた
 弓子 体温が39度ぐらいあったのに、熱が下がる注射をしてもらい、担がれるようにして行った。お弟子さんの前には、びっくりするぐらいしっかりしていた。しゃべれませんでしたが。

――確認だが、家族としては、「余命2、3か月」と本人に言っていないが察知したかもしれない、と思うか。
 慎太郎さん してないと思う。
 ――高座に向かう時の談志さんには、覚悟があった様子か。
 慎太郎さん かなり強い意欲を持っていたと思う。声はかすれて。
 弓子さん 出ない声で、あの「芝浜」なんかは……
 ――昨年暮れの読売ホールの?
 弓子さん そうです。ふつうの人ではあり得ないと思う。声の出る限り、落語を愛していたんだと思う。
 ――それ以降は。
 慎太郎さん 昨年12月の読売ホールがあって、3月までに3回くらいだと思う。
 ――談志さんが生前好きだった思い出の場所などは。
 弓子さん 家で食べるのが好きな人でした。
 慎太郎さん その時代で好きなものはかなり変わったが、だんだん言わなくなった。最初のうちはヨーグルトとバナナでこれは「チンパンジー食」だといったりして。
 弓子さん 食欲がどんどん無くなってきた。気管切開をした後にステーキを焼いたら、俺も食べる、と言って。本当に小さく切って食べたら、それが気管に引っかかって、それで死にそうになったんです。外食は去年のクリスマスに洋食屋さんに行ったのが最後ですね。
 ――葬儀で流した曲は。
弓子さん 「ザッツ・ア・プレンティー」です。これで満足という意味です。


朝日新聞
談志さん、戒名は自分で 手術後最初に「声は出るのか」
 立川談志さんの長男松岡慎太郎さん(45)と長女弓子さん(48)は23日夜、東京都内で記者会見し、最期まで落語家を貫いた闘病生活を明かした。
 談志さんは3年前に発症した喉頭(こうとう)がんが昨年11月に再発。家族は「余命2、3カ月」と宣告された。本人は「プライドが許さない」と声帯摘出手術をしなかった。今年3月の高座を最後に活動は休止。がんの進行で呼吸困難に陥り、気管切開手術をした。筆談の第一声は「しゃべれるのか、声は出るのか」だった。
 闘病中、弟子たちとは夏に一度会っただけ。友人らと会うことはなかった。弓子さんは「肉体的にも気力も落ち、声の出ない談志をさらしたくなかった」と話した。23日午後3時に密葬が終わるまで、弟子たちも死去を知らなかった。
 のどを切開後にステーキを食べようとして死にかけるなど、最期まで破天荒だった。戒名は生前に自分でつけた「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」。

日本経済新聞
奔放な芸風で落語界の寵児(ちょうじ)として活躍した落語家で元参院議員の立川談志(たてかわ・だんし、本名=松岡克由=まつおか・かつよし)さんが21日午後2時24分、喉頭がんのため東京都内の病院で死去した。75歳だった。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は妻、則子さん。
 東京・小石川生まれ。1952年高校を中退して五代目柳家小さんに入門。63年、五代目立川談志を襲名して真打ちとなる。毒舌でも知られ、テレビ番組「笑点」の司会や映画・舞台など幅広く活躍、人気を集めた。
 71年、無所属で参院選に立候補し当選、後に自民党に入党し77年まで務めた。沖縄開発庁政務次官の時に酔ったうえでの放言で次官を辞任した。
 83年に真打ち制度をめぐって落語協会を脱退、落語立川流を創設し家元となる。97年9月に食道がんを公表、昨年11月に喉頭がんを再発。本人の希望で声帯摘出手術は行わず、高座に上がり続けたが、今年3月を最後に活動を休止していた。
 著書に「現代落語論」「立川談志遺言大全集」など。

  ◇  

 長男の松岡慎太郎さんらが23日夜、都内で記者会見し、談志さんが生前に「葬儀はしないでくれ」と話し、自ら戒名を「立川雲黒斎家元勝手居士」と決めていたことなどを明かした。


NHK
談志さん遺族 闘病中の様子語る
11月24日 0時16分
立川談志さんの遺族が23日夜、記者会見を開き、談志さんの闘病中の様子などを語りました。東京都内のホテルで開かれた会見には、談志さんの所属事務所の社長も務める長男の松岡慎太郎さんと、長女の弓子さんが出席しました。談志さんの葬儀は、生前の談志さんの意向で、近親者だけで23日午後、執り行ったということです。葬儀の様子について、2人は「棺の中にトレードマークのヘアバンドや、かわいがっていた縫いぐるみを入れました。身に着けた紋付きの羽織はかまなどがすごく似合い、格好よかったです」と話しました。談志さんは、去年11月に喉頭がんが再発したあと、声帯を摘出する手術を受けず、ことし3月に呼吸が苦しくなって気管を切開したあとは、筆談で意思を伝えていたということです。闘病中の様子について、2人は「つらいことを表に出さない父でしたが、しゃべることができないことはつらそうでした。ことしの夏に一門の人たちと最後に会ったときは、立つこともできない状況でしたが、楽しんでいた様子でした」と説明しました。父親としての談志さんの思い出について、弓子さんは「父は家にいてもテレビと同じで破天荒な人でしたが、声を失ってから亡くなるまでの8か月間は、初めて毎日一緒にいるなかで、実は紳士的で優しい人だったということが分かりました。そうした時間を持つことができたのはよかったです」と話していました。談志さんの戒名は、生前に談志さんが自分で付けた「立川雲黒斎家元勝手居士」(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)だということです。今後、談志さんと親しかった人やファンのために、東京でお別れの会が予定されているということです。
琉球新報
古典落語の名手で、破天荒な言動と生き方でも注目を集めた落語家の立川談志(本名松岡克由)さんが死去したことが、23日分かった。75歳。東京都出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。
沖縄タイムス
古典落語の名手で、破天荒な言動と生き方でも注目を集めた落語家の立川談志(たてかわ・だんし、本名松岡克由=まつおか・かつよし)さんが死去したことが、23日分かった。75歳。東京都出身。葬儀・告別式の日取り、喪主などは未定。
 1952年、五代目柳家小さんさんに入門した。63年に談志を襲名し、真打ちに昇進。テレビ番組「笑点」の司会で売れっ子となった。
 71年、参院選全国区に出馬し当選、75年には沖縄開発政務次官に就任したが、記者会見での発言がもとで、約1カ月で辞任した。
 83年には落語協会を脱退、立川流を設立し、自ら家元を名乗って後進を育てた。古典落語の名手として知られる一方、歯に衣(きぬ)着せぬ毒舌は有名だった。

死ぬことによって、みずからの芸風を世間にまた知らしめたのでした。

わたくしも自分の死期がそろそろ気配を見せ始める年齢となりましたので、身につまされてこれらの記事を読みました。
立川談志さんは沖縄とも縁があるのですが、それはまた将来できたら触れたいです。

by yanagidamitsuhiro | 2011-11-24 12:59


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