生きるすべ IKIRU-SUBE 柳田充弘ブログ

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2005年 06月 29日

戦後60年 Sixty years after the War

きょうはうるま市のセンターの方で、会議や研究報告会などがあります。こちらは梅雨が激しくかつ長かったそうで、そのぶん本土のほうへの梅雨の移動がヘンなことになってるのかもしれません。こちらは雨が沢山降ったので渇水の心配はないと聞きました。夏の気温はそう高くないので、直射日光に当たりすぎなければ沖縄の夏はそれなりに過ごせるという印象です。ただ沖縄の夏を休暇で過ごす本土の世代はかなり若そうですね。きのうの夜、ホテルで見かけた人達はともあれ非常に若い。わたくしの平素の生活では会うこともなさそうな雰囲気の人達が多い。
今年はいろいろ60周年記念がありますね。外国では戦勝記念が多いようですが。日本はこの夏、沖縄戦、原爆、終戦(敗戦)と次々に60年の節目がやってきます。沖縄戦のことはわたくしもあまり知らなかったので、今回いろいろ知る機会があり、ひとつひとつの重い事実に、心がふさがれるような思いでした。しかし、自分の年齢の倍もあるような昔の話しでは、若い人達、なかなか興味が持てないかもしれません。興味を持ってもらうためには60年前でも、昨日に起こったかのように伝えねばならないのでしょう。ただ日本人の多くの人々にとって、戦争体験を語るスタンスが容易には作りにくいのです。戦争で負けて、勝者連合軍国家による裁判があり、侵略と断罪され、何年も戦勝国米国軍の占領下にあり、講和を経て正常化したとはいえ、その間を生きてきた人間は同じ人間ですし、国家としての正常化という変化とパラレルに変わるわけではありません。多くの場合、結果として単にというか見かけは時代に適応してきただけではないでしょうか。適応することがあまりに多くて、自分の信ずる戦争の語り口を持てない、これが多くの日本人の心にある問題点なのでしょう。

わたくしは64才ですから、生まれたのは日本海軍が真珠湾を攻撃した約8か月前ですから戦前にうまれたことになります。東京に居たせいか戦争体験も戦争の強い記憶もあります。父親がつくった柿の木の下の防空壕に入ったのを鮮明に覚えてます。たぶん4才近く、爆弾がすぐ隣におちて、幼児とはいえ、パニックになり、疎開先に連れられて行くのを必死に望んだのでしょう。終戦の頃は父親の実家で疎開してましたが、B29が天高く飛んでるのを見て真っ青になって防空壕に飛び込んで、周囲から臆病、臆病とはやし立てられたのもよく覚えてます。でも怖くてたまらないので、誰がなんといおうと一目散に逃げる感じでした。
敗戦の夏も、父親の実家に、父親や叔父達が復員してきて、戦争体験を大人達がみな熱心に話しするのを聞いて来ました。子供心になにか世の中が変わるというか、人が変わるという感じを持ちました。疎開先は農村なので、食べるものがあったことは確かです。幼児の頃というのは、幸せならほとんど何も憶えてないとか聞きますが、やはり恐怖体験は記憶に残るようです。でもわたくしのなどはまったく取るに足らないものでしょうが。
若い人にはその差が分からないと言うか、分かりにくいでしょうが、我々の世代は、いわゆる団塊の世代とは考えも行動も非常にことなります。年も6,7才違います。大学紛争時には27才くらいで、大半はもう社会人になっていたはずです。
それではどういう世代なのか、残念ながら、灰色の世代ですか。社会に比較的よく順応してきた世代なのだとおもいます。われわれの父親は兵隊であり、明治の終わりか、大正の始めの生まれなので、母と父から日本にある伝統的な古い考えは部分的にも継承されているのでしょう。一方で日本の戦争が侵略戦争であるとの教育を素直に受け入れ、戦後民主主義が国家の正しい礎と信じて、多くの人はやって来たのでしょう。ですから、新しい考えや国際協調にも順応したいと思う人が多いでしょう。若い人達から見れば、はっきりしない、世代としての主張がないように見られるでしょう。わたくしは、若い頃はそのようなことも自覚した上で、我々は貴重な世代なのだと、つまり日本の伝統的な良さと、戦後的な新しい価値の良さの両方を信じてやってきたのだと。折衷的といわれようと、日本という国自体が折衷的である以上、この国を今後もうごかしていくのに、片方に寄りすぎは危ないし、いけないと思うのですね。

ホントは言いたくないのですが、小泉首相は生まれ年は1942年ですが、早生まれなのでわたくしと同学年だとおもいます。彼のしぶとさはよく理解できます。

by yanagidamitsuhiro | 2005-06-29 14:26


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